話せるようになったら解決?「場面緘黙の克服」って、どういう状態の事を言うの?当ブログにおける定義とは!
このブログは、「場面緘黙・後遺症の克服を目指す方」に向けても書いていますが、
みなさんは「場面緘黙の克服」とはどういう状態のことだと思いますか?
挨拶が出来るようになったとき?
雑談が出来るようになったとき?
人の目や評価を気にせず話せるようになったとき?
実は、どういう状態が「場面緘黙の克服をしたとき」なのか、公式?として特に設定されていないのです。
そのため何を持ってして「克服した」と言えるのかがわからず、
「確かに話せるようにはなったけど、話している最中ずっと不安だし、これって場面緘黙が治ったって言えるの?」 という疑問を持つ方も少なくありません。
そこで今回は、
「場面緘黙克服の定義」について当ブログの見解を書いていきたいと思います。
よろしくお願いします。
※あくまでも「私の」考える克服の基準です。
これが正解なんて事は全くなく「自分はこう思う」という基準があれば、そちらで考えて頂ければと思います。
当ブログでの定義
様々な方の意見を参考にまとめた結果、
当ブログではこのように定めました。
=日常生活に支障が無い程度に話せるようになったとき
○後遺症の克服(緘黙のゴール)
=自尊心・自己肯定感が高い状態に戻ったとき・ありのままの自分を好きになり、受け入れられたとき
○「場面緘黙の当事者」
=場面緘黙または後遺症、いずれかを有している者
克服について考えていく上での参考として頂けたら幸いです。
では、一つずつ説明していきたいと思います。
場面緘黙の克服(緘黙の克服)とは
場面緘黙の克服(緘黙の克服)=日常生活に支障が無い程度に話せるようになったとき
まず、克服云々の前に、
「場面緘黙の定義」について見ていきます。
場面緘黙の定義とは
・他の状況では話すことができるにもかかわらず、ある特定の状況(例えば学校のように、話すことが求められる状況)では、一貫して話すことができない。
・この疾患によって、学業上、職業上の成績、または社会的な交流の機会を持つことを、著しく阻害されている。
・このような状態が、少なくとも一ヶ月以上続いている。(これは、学校での最初の一ヶ月間に限定されない)
・話すことができないのは、その社会的状況において必要とされている話し言葉を知らなかったり、また、うまく話せない、という理由からではない。
・コミュニケーション障害(例えば吃音症)では説明がつかず、また、広汎性発達障害、統合失調症またはその他の精神病性障害の経過中経過中にのみ起こるものではない
簡単に言いますと、
【学校などの特定の場所で、一ヶ月以上一貫して話す事が出来ない。
学業やコミュニケーションが著しく阻害され、日常生活に支障が出てしまう】
ということです。
つまり、この定義を基準に「場面緘黙の克服」を考えると、
「特定の場所でも話す事が出来る」
「日常生活で支障が出ない程度に話せる」
という状態が、「場面緘黙の克服」となります。
ここには、その後の生きづらさや不安感などは含まれていません。
あくまで個人の気持ちではなく「技術的に出来るようになったか否か」を克服の基準として考えています。
日常生活で困らないとはどの程度のことを言うか
最低限、日常生活で困らない程度の会話は、
・「はい」「いいえ」の意思表示が出来る
・必要に応じて、声を出すことが出来る(授業の発表や音読、重要な伝言等)
・あいさつを返せる。
・「ありがとう」「ごめんなさい」が言える
等になります。
が、「日常生活で困らない」の程度は人それぞれ違いますので、
自分自身の基準で考えてみることが大切です。
言うべきことが言えずに、周りに嫌な思いをさせてしまうとか、
伝えなければいけない伝言を伝えられず迷惑を掛けてしまうとか・・・
そういったことがなければ、場面緘黙を克服したと言っていいと思います。
個人的には、「雑談が出来ない」は日常生活の支障には入らないと感じています。
確かに、人との交流が円滑に進まないのは支障があると言いたくなりますが、
雑談って、しなくても困らないんです。
した方が楽しいし、人と仲良くなれますが、しなくても「困り」はしません。
よっぽど「あいさつが出来ない」とか「はいいいえ、ありがとうごめんなさいが言えない」とか「重要な伝言を伝えられない」方が、
周りの人に与える影響が大きい分、困ります。
※重ね重ね言いますが、上記は個人的な考えですので、
「自分自身で困る基準」を設定して、自分が場面緘黙を克服しているかどうかを考えてみることが大切です。
私の意見は一意見で、絶対ではありません。
後遺症の克服(緘黙のゴール)とは
後遺症の克服(緘黙のゴール)=自尊心・自己肯定感が高い状態に戻ったとき・ありのままの自分を好きになり、受け入れたとき
場面緘黙の後遺症の定義とは
場面緘黙が治っても、人間関係に苦手意識をもってしまったり、対人関係による不安から生きづらさを感じている。
これらをまとめて「場面緘黙の後遺症」と呼んでいます。
要するに、 「場面緘黙を経験したことにより出てきたしまった二次障害、または生きづらさ」 ということですね。
(中略)
後遺症の原因
④自尊心・自己肯定感の欠如
私は、最も重要な原因はこれであると思っています。
場面緘黙の時、「話せない自分」「出来ない自分」がいる場面に多く直面すればするほど、自己否定の感情が芽生え、自尊心・自己肯定感といった感情が育たなくなってしまいます。
自尊心とは「良いところも悪いところも、全て含めて自分を受け入れ、尊重出来る心」 です。
場面緘黙の後遺症に関わらず、 生きづらさを感じている人は、この『自尊心』が低い人が多いのです。
場面緘黙の影響で低くなってしまった自尊心を高めていくことが、後遺症克服への第一歩となるでしょう。
私のブログから引用しました。
「場面緘黙の後遺症」は、当事者の私たちがそう呼んでいるだけであって、
定義づけされているものではありません。
上の引用は、様々な方の意見を参考に書いたものです。
さて、この定義を基準に「後遺症の克服」を考えていくと、
「生きづらさが無くなったとき」
=「自尊心・自己肯定感が高い状態に戻った時」
という状態が、「後遺症の克服」となります。
これは場面緘黙の克服と違い、技術的な面ではなく個人の心の回復に焦点を当てており、そこが基準となっています。
「場面緘黙の当事者」とは
「場面緘黙の当事者」 =場面緘黙または後遺症、いずれかを有している者
○後遺症の克服(緘黙のゴール)
現在はこのように分けて考えていますが、
少し前まで、私は「克服」と「ゴール」をごちゃまぜにして考えていました。
ここの境界線が曖昧だったため、
「後遺症があっても、話せるから当事者ではない。私は「元・当事者」です」
「でも・・・話せているはずなのに心の辛さは残っている・・・私はまだ場面緘黙を克服出来ていないのかな?」
「本当に今ここが場面緘黙のゴール地点なんだろうか…」
と、答えが出ない自問自答を繰り返してしまっていたのです。
「話せるようになって、場面緘黙は治っているのに、喋ることに苦手意識があるし、毎日不安だし、人と接することが未だに苦手で・・・
克服は出来ているはずなのに、どうしてこんなに辛いんだろう・・・」
このような、私と同じような悩みを抱えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。
しかし、
この疑問はスッとほどけていきました。
私は、日常生活で困らない程度に話せていて、場面緘黙の克服は出来ていたから、
「場面緘黙の当事者ではない」と考えていましたが、
「緘黙のゴール」にはたどり着いていなかったため、まだ「場面緘黙の当事者」である。
ということがわかり、納得することが出来ました。
※現在はどちらの克服も出来ており、元・当事者になっています
まとめ
最後にもう一度、こちらが当ブログでの定義です。
=日常生活に支障が無い程度に話せるようになったとき
○後遺症の克服(緘黙のゴール)
=自尊心・自己肯定感が高い状態に戻ったとき・ありのままの自分を好きになり、受け入れられたとき
○「場面緘黙の当事者」
=場面緘黙または後遺症、いずれかを有している者
この理屈を応用して
「話せるようになったけど雑談は苦手」
という状況の人を考えてみると、
話せるようになった=日常生活に支障が出ていない
雑談が苦手=そんな自分を責め、塞ぎ込んでしまう、生きづらさを感じる
という状態であるならば、
「場面緘黙の克服は出来ているけど後遺症が残っている、「場面緘黙の当事者」」
といえます。
ちなみに、
話せるようになった=日常生活に支障が出ていない
雑談が苦手=苦手だけどまあそれが私だし!自分を責めたり塞ぎ込んだりはしないかな!
という状態であるならば、
「場面緘黙の克服は出来てるし、自尊心・自己肯定感の回復も出来てる(後遺症も克服出来てる)「元・場面緘黙の当事者」」
といえるでしょう。
私のブログを見て頂くときは、このことを頭に置いておいてもらえるとわかりやすく読めると思います。
ご自身の定義の参考にもしてみて下さい。
…あ!大事な事を忘れてました!
不安感について
ひとつ、間違えないでほしい事があります。
克服を目指す方の中には「後遺症を克服すれば不安感がなくなる!」と思われている方もいると思いますが、
多分、不安感は一生ついて回ります。
私は元・当事者ですが、相変わらず不安なことは不安だし、雑談が出来ない時、一回は落ち込みます(その後「しょうがない」と切り替えられますが)
なぜか。
それは、多くの場面緘黙の方が、生まれつき「不安を持ちやすい気質」を併せ持っているからです。
どんなに自尊心や自己肯定感が回復しても、この気質は一生変わることはありません。
そして、そんな気質も全部ひっくるめて、ありのままの自分を認めること。
それが場面緘黙のゴールに繋がります。