場面緘黙は努力して治すもの?治らないのは努力が足りない?いいえ違います!努力=「できる」ことを積み重ねること!(克服体験=参考文献の話もあるよ)
少し前、場面緘黙について取り上げた漫画が、SNSで話題になりました。
有名な方が描かれたものでしたので、多くの方に場面緘黙を知って頂くことが出来たのではないかと思っています。
フェルミ研究所さんの漫画はこちらから↓
場面緘黙症になった話① pic.twitter.com/ZYwvCw1FZA
— フェルミ研究所@闇の管理人 (@denran1031) September 13, 2019
しかし、当事者の中には「取り上げてもらったことは嬉しいけど、複雑」という意見がちらほら見受けられました。
理由は、漫画内で出てくる「本気で話すための努力」という言葉です。
・本気で努力すれば治るというものではない
・場面緘黙の人が話す努力をするというのは、バンジージャンプから飛び降りるのと同じような恐怖と戦いながらの努力をするということ※1
・安易に「努力」という言葉は使えない
・無理に努力すれば二次障害が出てしまう可能性がある
などなど・・・。
主に「努力」という言葉に違和感を覚える方が多いという印象でした。
そこで今回は、漫画や様々な方の意見を読ませて頂いた中で、
「場面緘黙は努力で治るのか」ということについての見解を書いていきたいと思います。
※1・場面緘黙の感覚は、ちょいちょいバンジージャンプから飛び降りる時の恐怖に例えられたりします。詳しくはこちらから↓
「努力」の意味
「辛いことを我慢して行動することが努力」
努力という言葉には、こんな意味が込められているという風潮がありますよね。
まさに「バンジージャンプの恐怖と戦うこと」が「努力」であると言っているようなものです。
でもこんな意味で「努力」という言葉を使ってしまうと、
「本気で努力」すれば、話せるようになった人がいる。
お前が話せないのは、努力が足りないから。
努力が足りないのは、辛いことから逃げている証拠。
甘えているから、辛いことから逃げるんだ。
話せないのは甘え。
という考えを持つ人が現れてもおかしくありません。
・・・ちょっと何言ってるかわかんないですね。
途端に古臭くてダサい考え方になってしまいます。
この令和の時代に、まだ戦後の考え引きずってるの?と言いたくなりますね。
努力って、本来はもっと良い意味合いがあったと思います。
いつから自分を苦しめる言葉になってしまったのでしょうね。
そんな中、「努力」について調べていたのですが、こんな言葉を見つけました。
努力とは「できないこと」を克服することではなく、「できる」ことを積み重ねること
スモールステップ法で達成する喜びを知れば、惜しみなく努力する子になる
これを「スモールステップ法」と言います。
ポイントは、子どもが必ず達成できるレベルまで下げてから、課題を設定すること。
課題をクリアすることが子どもの自信につながり、
「もっとがんばれば次に上がれる」というモチベーションを生むのです。
大変感銘を受けました。なるほど!
努力の本来の意味って、こういうことなのかもしれません。
努力とは、出来ないこと、辛いことを我慢して行動することではなく、
「できる」ことを積み重ねること
出来ることを積み重ねるとは、まさしく「スモールステップ」 のことですよね。
努力の方向性を間違えてはいけない
努力=「できる」ことを積み重ねること
今はこの一言で集約できるのですが、まだこの言葉を知る前、
「努力」について違和感を持ち、ツイッターで長々と呟いたスレッドがあるので、そちらも紹介します。
※長いので読み飛ばし可です。
要約すると、
○「バンジーを飛ぶ恐怖を味わいながら努力する」という、間違った努力の方法をとっていても緘黙は治らないよ(正確には治っても後遺症が残るからオススメしないよ)
○努力するなら「自分と向き合う努力=スモールステップ」をしていく必要があるよ。
○そして、スモールステップの第一歩は、人それぞれ違うんだよ。
ということを書きました。こちらです↓
【努力の方向性を間違えてはいけない、場面緘黙克服の話】
私はまさにバンジーの恐怖と戦いながら努力し、緘黙を治した者です。
だからこそ言えます。そのやり方は正しくない。
まさしく根性論です(結果、後遺症が根強く残りました)
努力するなら、努力の方向性を変える必要があります →
場面緘黙を克服するために必要なのは、
話す努力(バンジーの恐怖と戦う努力)ではありません。
自分と向き合う努力です。
自分と向き合うとは、「自分の出来る所出来ない所と向き合う」ということです。 しかしこれ、けっこうキツいです。 →
自分と向き合う方法の一つとして「スモールステップの表に書き込む」があります。
場面緘黙の方がすべきことは、恐怖と戦いながらバンジーを飛ぶ努力をすることじゃない。
恐怖を感じないで飛べる高さを見つけ出し、そこから飛ぶ努力をすることです。
要するに大事なのは「スモールステップ」です。 →
…ところで、場面緘黙の方の中で、スモールステップの表に実際に書き込んだことがある方はどのくらいいらっしゃるでしょうか。
やってみたことがある方は分かると思いますが、けっこうしんどくないですか? →
出来ない部分があればあるほど、「私ってこんなことも話せないの…?」と気分が落ち込んでしまいます(だからキツい)
自分と向き合う努力=このキツさと向き合う努力 →
賛否両論あったというフェルミ研究所さんの漫画。
こちらはちゃんとスモールステップが出来ていると感じました。 →
彼女の場合、「初対面の方となら話せる→そこから「出来る」という自信を徐々につけていき、仲の良い友達とも話せるようになった」
しっかり自分を把握して、
出来ない場所での努力ではなく、出来る場所での努力をしています。 →
そして、ここを絶対に勘違いして欲しくないのですが、
「彼女の場合」が、初対面の人と話す事がスモールステップのはじめの一歩だっただけで、ここは人それぞれ違います。
絶対違います。
彼女の真似をしても場面緘黙は克服出来ません。 →
「自分自身のはじめの一歩」を、「自分自身で」見つけないとなんです。
人によって全然違うから。
だから「自分の出来る出来ないを把握する事」が大事なんです。 →
場面緘黙を治すための努力は、まずスモールステップの表をつける努力からはじまります。
バンジーの恐怖と戦う努力は、結果的に後遺症が残るだけなので、辞めた方がいいと経験者は思います。
なつ on Twitter: "【努力の方向性を間違えてはいけない、場面緘黙克服の話】
長々書いていてまとまりがないのですが、
これを端的に表してくれる言葉が
【努力=「できる」ことを積み重ねること=スモールステップ】
なんだと思います。
スモールステップについてはこちらから↓
どうして声が出ないの? | ||||
|
場面緘黙の克服に「努力」は必要か
努力=できることを積み重ねること=スモールステップ
とするならば、
必要でしょう。
反対に、
努力=出来ないこと、辛いことを我慢して行動すること
とするならば、
必要無いでしょう。
フェルミ研究所さんの漫画の「本気で話すための努力」は、スモールステップを駆使し、出来ることから積み重ねていっているので、
まさしく正しい「努力」をしている、と言えるのではないでしょうか。
反対に、バンジーを飛ぶ恐怖を味わいながら克服を目指すやり方は、努力とは言わないです。
最後に:他人の克服体験を読んだあと考えて欲しいこと
努力の話と少しずれますが、
人の克服体験を見た後、
「それってこの人は出来たけど、みんながみんな出来る訳じゃないよね?」
「このやり方、私には無理」
「これが出来ない私が、治るのは無理なのかな」
「こういう表現、こういう誤解が生まれるんじゃないの?」
といった感情が生まれること、有りませんか?
私はバリバリ思ってました。
その当時描いた漫画がこちらです↓
【急募】場面緘黙症【解決策】
昔「世界仰天ニュース」で場面緘黙症のことをやっていた時のこと
海外の場面緘黙症の子の話。家で騒いでいる様子をクラスの子に映像で見せたことがきっかけで場面緘黙症が克服できた
「嘘だろ・・・?」本当に?
当時の私は学校での私を家族に知られたくなかったし、家での私を学校の子に知られたくなかった
「なっちゃん学校では全然話さないよー」
(やめろ!!!)(言うな!!!)
当時の私がこれやられてたらどうなってた・・・?いやでも意外とうまくいってたのかな?実際やってないからわからないけど・・・いや¥・・・でももしこれで心潰れちゃったらどうする?いや本当わかんない。自分のことなのに全く想像出来ないわ恐ろしい・・・。いやでもコレ低学年なのか中学年なのか高学年なのかでも違ってくると思うしクラスの人数とか雰囲気も関係してくると思うし今回のケースはたくさんの奇跡が重なってものすごく良いタイミングで出来たからこその成功な気がするし針の穴を通すような今回の奇跡で緘黙症を克服出来た人はこのテレビの方以外にはどれだけいらっしゃるのだろうか・・・てか日本での成功例とかあるのこれ?うーーーーーん・・・
難しい問題だなぁコレは
「これ!」っていう解決方法が無いよね場面緘黙症・・・。
世界仰天ニュースでやっていた場面緘黙を克服した少女(カースティー・ヘイズルウッドさん)の話が、とても信じられなくて、
「嘘だろ?」
「私は無理だ」
「え?これって正しいの?正しいの?」
「だってもしこの方法試して失敗して心に傷を負う子が出てきたらどうすんの?」
というように、
ずーーっと、この方法が正しいのか正しくないのか、場面緘黙の解決方法って何なのか。を考えていました。
現在、
場面緘黙・後遺症ともに克服した私は、克服の体験を漫画にして描いています。
伝える側になって思ったことは、
フェルミ研究所さんの漫画も、
世界仰天ニュースのカースティーさんの体験も、
私の克服漫画も、
今現在悩んでいる当事者が、場面緘黙を克服するための参考文献だ
ということです。
(※当事者以外の人には「場面緘黙」の存在を知ってもらうための媒体)
私は人の成功体験や克服体験を見ては「これは正解?」とか「このやり方だと成功しない子の方が多いんじゃ・・・」とか、色んなことを考えていたのですが、
そもそも他人の克服体験が、自分やその他の子にとっての正解な訳ないです。
丸々同じやり方をしても、成功する訳ないです。
だってその人とは生まれた立場も環境も育ち方も全く違うわけですから。
その人にとっては正解でも、私にとっての正解になるとは限らないのです。
しかし、人の成功体験を見ることに意味がないとは思いません。
人の体験には、自分でも使えそうなヒントが隠れている場合があります。
人の意見を見ることで、「自分はちょっと違うな」とか、「確かにこれなら自分も出来そうかも」とか、
自分自身のやり方を模索する選択肢を増やすことが出来ます。
「この人がこうしていて成功してるから、このやり方が正しいんだ!」と盲目的に信じるのではなく、
「こんなやり方私には出来ない・・・なんて自分はダメなんだ・・・」と自分を悲観する材料にするのではなく、
「この人はこうして克服している、けど、自分だったら無理だろうな。じゃあ何だったらいいんだろう」と、自分を分析する上での参考として考えることで、
自分自身と向き合い、自分自身の克服方法を見つける糧になるのではないでしょうか。
この、「じゃあ何だったらいいんだろう」まで考えられるのがベストです。
「わたしには無理だ」で終わらず、あと一歩踏み出して考えてみることが大切だと私は思います。
全部を真似する必要はないですが、自分にとって有益で使えそうな部分のみ、どんどん真似していって欲しいと思っています。
おまけ
上の漫画を描いていた当時の私へのアドバイスをするとしたら(自分へのアドバイスなので辛口)
これは、カースティーさんのやり方に合っていたに過ぎない。
みんながみんなこのやり方であってるわけでは無い。
当時のあなたはしない方がいいと思う(当時の自分を今振り返ってみて思う)
カースティーさんの方法をそこまで深く考える必要は無い。ただの参考文献。
『沢山の奇跡が重なって成功した』って書いてあるけどその通り。
彼女にとって唯一無二の克服方法であっただけ。
「自分はどうだろうか」って考える参考程度で十分。
『これっていう解決方法がないよね』その通り。
みんながみんな、一人1人違うんだから、「これ」なんてない。
自分自身の解決方法を考えることが重要。
ただ、他の人の克服体験で書かれていたスモールステップという方法を使うのは良い。そこは真似していい。
しかし、スモールステップの第一歩はみんな違うから、結局「これ」とは言えない。
自分自身で第一歩を見つけて、実践していくしかない。
とりあえず今あなたがすることは、場面緘黙の後遺症を治すことに専念することだよ。
その為にはまず休め。
詳しくはコレを見てね↓
って感じです。
端的に言うと、
「参考文献について頭抱えるのではなく、自分と向き合うことに時間を使おう。」
ですね。